赤穂城

別名 加里屋城
   刈屋城
   大鷹城
付近住所 赤穂市加里屋 現在 赤穂城跡公園
2006/3/15 碑・案内板アリ 日本城郭大系

生駒家→

池田家
政綱→
輝興 
改易

笠間藩より
浅野家
長直→
長友→
長矩 
改易

烏山藩より
永井家
直敬
飯山藩へ

西江原藩より
森家
長直→
長孝→
長生→
政房→
忠洪→
忠興→
忠賛→
忠哲→
忠敬→
忠貫→
忠徳→
忠典→
忠儀 
 赤穂城は、正保2年(1645年)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、実に13年に亘る歳月を費し、寛文元年(1661年)に完成したものである。
 城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の7関係は梯郭式になって、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城である。城郭の規模は、十の隅櫓、十二の諸門があり、曲輪の延長は約2847メートル、面積は約6万3711平方メートルに及んでいる。塁石、防壁、諸門、本丸御殿がととのえられ、居城としての偉容が示されたが、天守台のみ築かれて天守閣は構築されなかった。
 築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は大名庭園がよみがえっている。
 赤穂義士の自刃250年祭を記念に、昭和30年春、大手門、大手隅櫓と城壁の一部が復旧され、同46年3月赤穂城跡は国の史跡に指定された。以後、本丸の整備等が進められている。

山鹿素行先生銅像
 兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(1622〜1685)は承応元年(1652)から万治3年(1660)の間、赤穂藩主浅野長直に1000石で召し抱えられ、承応2年には赤穂城築城に参画してニの丸虎口の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。
 その後、寛文5年(1665)に「聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝3年(1675)まで赤穂に配流され、二の丸内の家老大石頼母助邸の一隅に謫居した。
 配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全」「中朝事実」「武家事紀」「謫居童問」など、素行の学問を代表する大著を完成している。
 大正14年(1925)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成10年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。

   
                     天守台             大手隅櫓          山鹿素行銅像